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2005.09.06

「見ることの塩」四方田犬彦(セルビア/コソヴォ編)

 10年、20年経って、旧ユーゴ諸国全てがEUに加盟した時、
全ての旧ユーゴ諸国の間に横たわっていた境界がもう一度廃棄されることになる。
「人々は気づくことになるのだ。あの時あれほどまでに大きな犠牲を払って
 勝ち取ったそれぞれの共和国の境界線など、何の意味もなくなってしまった
 ということに」


 コソヴォには廃墟となった工場地帯が続いている。
以前はセルビア人が技術者として働いていたのだが、アルバニア人の労働者だけ
になってしまった時、機械のメンテナンスが困難となって多くの工場が閉鎖も
同然になっている。病院も同じ状況だという。
「これまで旧ユーゴ時代に工場や病院といった職場で、アルバニア人がセルビア
 人と比べていかに低い地位しか与えられず、技術者として専門的な訓練研修を
 受ける機会から遠ざけられてきたかという事実をも物語っていた」


 セルビアは難民大国だ。百万人を超えるセルビア人難民が、
ボスニアとコソヴォから、セルビア本国に避難してきた。
しかし、セルビア本国人と難民との間には、深い溝が存在するようだ。
「同じセルビア人であるにもかかわらず、難民達は周囲から孤立して暮らして
 いた。難民達は仕事を見つけることもままならず、ただ援助物資を
 宛がわれては無為の日々を送っていた」


 コソヴォ紛争におけるロマの悲惨。
「セルビア人とアルバニア人の双方から残虐行為に手を染めるよう強要され、
 その結果、いずれの側からも軽蔑と憎悪を向けられてきた」

「民族と宗教の違いが戦争の原因となったのではない。戦争によって引き起こ
 された異常な状況が、エスニックな自己同一性を人々に準備させたのである。
 敵との対立関係を通して新しいアイデンティティを与える。それが民族であり
 宗教であった」
「民族とは、近代19世紀に考案されたものであり、神話的起源や英雄叙事詩は、
 民族の発明の歴史性を隠蔽し、それを偽りの永遠の相のもとに顕彰する目的で
 援用されている物語にすぎない」

「他者を暴力に満ちた野蛮と見立て、それを鏡像としてみずからの美化と神聖化
 へと向かうものたちが、現実にはその場所に野蛮と暴力を導入している」


ある犠牲者が、かつて別の場所では加害者であったのであり、
ある加害者が、かつて別の場所では犠牲者であったのだ。

そういう意味において、確かに「見ることの塩」である。
目に入ってくる現実は、次から次へと目に塩をすり込むかのような
悲痛な現実ばかりである。
それも、単純な悲劇ではない。
悲惨が多重構造になっている。
筆者はそれを「入れ子構造」と呼んでいる。

ユダヤ人、パレスチナ人、セルビア人、クロアチア人の間で
更にその内部で差別・抑圧が「入れ子構造」になっている。
出身地別、階層別、性別等々の要素によって更に階層構造が繰り返されていく。

しかし、悪無限と思える「入れ子構造」も無限ではない。
その「構造」を解明し、分析しなければならない。
分析し、解明し、認識しなければならない。
「見ることの塩」は、その営為を背後で衝き動かすものへと
昇華されるのでなければならない。


<参照>
「見ることの塩」四方田犬彦(イスラエル/パレスチナ編)
http://ima-ikiteiruhushigi.cocolog-nifty.com/palestine/2005/09/post_3fa9.html

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