「ユーゴスラヴィア:多民族戦争の情報像」岩田昌征:お茶の水書房
<まえがき>
「民主主義と基本的人権に立脚する市民社会が衆知を集めて民主的に決定した
愚行である所に、今回のNATO空爆にまとわり付く未来志向的恐怖を肌で
感じざるを得ない。
情報覇権主義、市民帝国主義と性格付け得るような新時代がやって来たの
かも知れない。」
<第一章>旧ユーゴスラビア多民族戦争の経済関係的諸原因
第一に、ユーゴ自主管理では、従業員集団内部の水平的利害対立、相互不信
第二に、社会有の崩壊:資本の本源的蓄積の現代版である「階級形成闘争」
第三に、ユーゴでは、農業は個人有、しかし、旧地主はムスリム。自営農になっ
ていたセルビア人の彼等の危機感。農地所有問題を視野に入れると、ボスニア
戦争において都市よりも農村において民族戦争がきびしかったこと、またセルビ
ア人農民の都市(ムスリム人が多い)に対する不信感があれほど強かったことの
理由が解けてくる。自己防衛衝動と他者憎悪。
<第二章>戦乱のクライナ・ボスニア紀行
最終的に四列縦隊の数百キロメートルに達する超大行列
ベオグラードでクライナ・セルビア人共和国首相ビバチと米大使ガルブレイスが
会談し、国連事務総長特別代表明石康も駆けつけた。ビバチは全ての要求をのん
だ。ガルブレイスは「もはや戦争の理由はなくなった」と語った。しかし、その
12時間後にクロアチア軍による「嵐」作戦は始まった。
ムスリム人達が明石康に責任ありとする大量虐殺の疑いである数千人の男達の
行方不明、しかし彼等はムスリム人正規軍に正式に動員され、編入されていた。
「西スラヴォニアの虐殺疑惑」コロアチア正規軍により3300人のセルビア市
民と千人のクライナ・セルビア人軍の兵士が休戦受諾後に処刑されたと言われる
「知っている顔も見える。そんな時は射ち合わない。『なんで俺達は殺し合わな
ければならないのかな』と叫ぶ。『俺だってやりたくないさ。奴等が俺をこんな
所まで追いたてて、射たせるんだ』と叫び返してくる」現場の兵士の発言
<第三章>内戦は終わったか:ベオグラードからの三つのレポート
ミーラ・マルコヴィッチ「ナイトアンドデイ:セルビア大統領夫人の反戦日記」
「不思議なことに、自主管理制に一番強く反対した者(そして社会主義一般に
反対した者)は、自分たちで圧力をかけて市民社会を導入させた今になって、
元の自主管理的諸権利を失ったために抗議している自分たちが望んで導入した
はずの民主的なゲームのルールを今になった批判しているのである」
1993年ハイパーインフレ:前年の2861億倍!マルク交換保証により終息
クニン:コロアチア庶民による略奪自体を特別に道徳主義的に非難するわけでは
ない。ボスニアにおいて自分達と同じセルビア人庶民がムスリム人財産を略奪し
まくった現実を肌で知っているからであろう。
クロアチアには、戦争を個人的至富に活用した社会層と戦争でステータス特性
を失ってしまった社会層の間に緊張と衝突があります。これが彼等の最大の問題
です。
クロアチアでは200家族が社会有資産のほとんどを独占してしまった。
未来への幻想なき復興
セルビアは世界共同体がボスニアの発展に投じた援助のわずか2%しか受け
取っていない(米大使ガルブレイズ)
<第四章>旧ユーゴをめぐるヨーロッパ的偏見
流布された「事実」を所与として、解釈に解釈を重ねていくうちに、リアリ
ティのなかでものを考えられなくなってしまう。
「アンダーグラウンド」(クストリッツァ)好みのイメージを全世界に強いる
操作を旧ユーゴ内戦について行っているのがヨーロッパじゃないかとつきつけて
いるわけです。マルコは、ベオグラードの地上からベオグラードの地下室の人々
に、つまり友人達に対して情報操作・イデオロギー操作・音楽操作を行い、同時
に密輸用の武器をつくらせる。これはまさにアメリカやヨーロッパが全世界で
この戦争について現にやっていることではないかと。
マルコに象徴されるものは、現代世界では「ヨーロッパ文明人こそはマルコ
なんだ」と突きつけているのです。
スロヴェニアは、独立を宣言し、隣国オーストリアとイタリアとの間の全ての
国境と税関施設を実効支配のもとにおいた。諸多の共和国に向かう諸財に対する
権利と、ユーゴ連邦予算の75%と見積もられる税関収入とを一方的に接収して
しまった。
ヨーロッパから最も遠いマケドニアは、交渉によって連邦軍に引き上げてもら
い、平和的に独立を達成しました。
「クリスマス休戦」は語られるが、イスラム教のラマダン、正教の聖なる日に
ついては語られない。ヨーロッパの習俗と他の文明の習俗とが対等に扱われては
いない。
虐殺者と言われたカラジチですら「ラマダン開けの2日は彼等にとって重要な
日だから挑発があっても撃ち返すな」と演説した。そういうセンスさえ持たない
人々がカラジチを批判する。その点に関しては傲慢としか言いようがないんじゃ
ないか。それこそヨーロッパ的偏見というものです。
紛争に関する知識というのは、一方の当事者の自画像だけを見て、一方の当事
者が相手に対して描く他画像だけを聞いて紛争イメージをつくったら、その当事
者がいかに主観的に誠実であっても、そのイメージはおそらく歪んだものでしょ
う。
94年2月の事件(それを口実に陸空から攻撃開始)については、6月に明石
康は、ドイツのDPA通信に証言して、ムスリム人犯行説が強まりました。
内戦は階級形成闘争で始まり、階級形成闘争に終わった。
個人農家の私有権の洗い直し:セルビアの村の民、山の民が何故あれほど
「好戦的」になったのかの秘密があります。
民族問題の裏に潜む私有権闘争(階級形成闘争)と私有権見直し闘争(階級
再編成闘争)の錯綜を見忘れてはなりません。
イスラム世界からムスリム人への武器援助は有効にカットされてしまった。
それはアドリア海が欧米によって大々的に封鎖されていたからです。もしセルビ
アを封鎖することだけが目的なのだったら、なにもあんなに大々的にアドリア海
を封鎖する必要はなかった。真の狙いはムスリム世界の武器がボスニアに大量に
入ることを阻止することだっと思います。
「民族主義を超えて」などという大問題がまず在るのではない。現場で人々は
どうやって生活しているのか、それが問題なんです。
「民族主義を超えて」などという「良心的知識人」が自分の頭で考えるのでは
なく、国際世論、その実、ヨーロッパ文明人の世論に単純反応して、振り回され
ている。
<第五章>『文明の衝突』とコソヴォ紛争
マスコミは事実を知りたいのではなく、自分のイメージを事実で確認したい。
だから予め持っているイメージに合わない事実は見ようとしない。
コソヴォ解放軍:相手側を挑発して自分達の側に犠牲者が出れば、国際世論の
同情が得られ、力となるという転倒した発想も出てくる
アルバニア系コソヴォ住民は、コソヴォで選挙をボイコットしている。セルビ
ア共和国の他の地域でやモンテネグロ共和国では、アルバニア人の政党が選挙に
参加している。つまり少数民族一般の権利がないとか、権利が全く奪われている
ということではないんです。
セルビアの治安軍を挑発して出撃させれば、NATOが空爆してくれる。そう
なれば挑発だってしますよ。この意味で民族独立闘争を歪めることになる。
<第六章>黙殺された民族共生の努力
チェトニク(セルビア民族主義者)は、連邦軍と交戦さえした。連邦軍はとに
もかくにも市民達(平服のクロアチア人達)を保護したからだ。
ムスリム人を保護しようとメディア・キャンペーンが世界で展開されていた
最中に、ムスリム人は、平静に、整然と、残酷に、そして冷笑的に国連保護の
下でセルビア人住民を抹殺し、純粋にイスラム的な飛び地を造り出していた。
戦争状態において立場交換の思考実験なんていうのは、絵空事なのかも知れな
い。思考実験は純粋に方法論的な主体的努力であって、ある程度距離をとること
の許された者だけが出来るのかも知れない。
ムスリム人医者達はセルビア人にも差別せず医療行為を行った。
1991年、ムスリム人ズルフィカルパシチは、ボスニアのセルビア人と交渉
し、妥結。更にミロシェビッチとも会談し、交渉は妥結した。この「歴史的協定
」は、TVでも放送され、ボスニアのセルビア人とムスリム人は、また以前のよ
うにカフェで同席して喋り合いだした。しかし、イゼトベゴヴィッチは、アメリ
カを訪問後、この協定を破棄。しかし、ズルフィカルパシチの小政党は、ボスニ
アのセルビア人政党と合同で大集会を持つ。
欧米諸国は、バルカン半島の平和を真に求めていたと言うよりは、誰か悪い奴
が何か悪いことをやってくれて、自分達が善の化身として、正義の使者として、
バルカンを舞台に大手をふって活躍できる新しい時代環境を造り出したがって
いたように見えたし、今もそう見える。自分達が関与しない平和工作をどういう
訳か歓迎しない。
<第八章>ユーゴスラヴィア空爆とミロシェビッチの真実
私達はみな欧米のマスメディアに色づけされた情報化社会の中に、欧米メディ
アだけのヴァーチャル・リアリティの中に生きているのです。そういう客観的
認識を持たずに正義感や人権感覚だけでやっていきますと、とんでもなく歪んだ
世界像を持たされ、歪んだ行動をしてしまうことになります。
ハンガリーがロシアからのセルビアへの人道援助を国境で指し止め、空爆でも
NATOによる航空基地の使用を認めている。
クライナ・セルビア人共和国で、KFOR(国連保護軍)が展開し、ユーゴ
連邦軍は引き上げた。ドルニシの近くの村シリトフツィではケニア大隊が駐屯し
たが、クロアチア人によって残ったセルビア人の兵隊と警察官58人が全部殺さ
れ、洞穴に投げ捨てられたのだ。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
この本の感想を書いたのですが、内容については、私の手に負えず、こちらのブログをリンクさせていただき、本の紹介に代えてしまいました。
申し訳ありません。
この「昔、ユーゴスラヴィアという国があった」というブログを一人でも多くの人が読んでくれるといいと思います。
投稿: ひろ | 2005.04.03 18:51