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2007.05.11

『イスラエル建国』=パレスチナ難民という原罪

難民キャンプ地図
REFUGEE CAMP PROFILES
http://www.un.org/unrwa/refugees/camp-profiles.html
Gaza map
http://palestine-heiwa.org/feature/about_gaza/img/map2.html

パレスチナ問題について、何年も語ってきた人が何人か、
「パレスチナって難民キャンプじゃなかったんですか」と語っている。
私は愕然とした。
パレスチナ問題を何年も語ってきた人ですらこうなのだ。


そもそも1948年の『イスラエル建国』以前には、
ガザや西岸には、パレスチナ人など住んでいなかったとでも
思っていたのだろうか?

一体、パレスチナ人をなんだと思っているのであろうか?
同じ人間だと思っているのであろうか?

私には根源的に疑念が生じる。

余りにも当然のことだが、1948年以前にもガザにも西岸にも
パレスチナ人は住んでいたのだ。
しかも数世紀にも亘って、先祖伝来の土地に住んでいたのだ。
ガザと西岸を併せて数十万人が、生きて、生活していたのだ。

1948年のナクバによって、『イスラエル』となった土地から、
文字通りに民族浄化されて、つまり、虐殺され、軍事力で追い立てられ、
約75万人(諸説ある)が、ガザや西岸や周辺諸国に難民となって
流入したのである。

ガザや西岸でも難民キャンプを作った。
最初はテントで、その後は、泥の壁、そして波型鉄板の屋根へと。

既に59年もが経っているが。

確かに、難民キャンプはあるが、
難民が全て難民キャンプにだけ住んでいる訳でもない。

結婚で難民キャンプを出る者、
家族が増え、建て増しでは追いつかないので、一般の市街地や住宅地に出た者、
経済的に余裕ができた者は、難民キャンプを出て、新宅を構える者もいただろう。

難民キャンプとそれ以外とは、区画として区別されているだけでなく、
住民の意識においても実在している。
「難民かそうでないか」と。
「難民キャンプの奴なんかとの結婚は許さん」とかと。

心あるアメリカ人にとって、ネイティブ・アメリカンの問題は原罪だ。
心あるユダヤ人にとって、パレスチナ難民の問題は原罪だ。

自分が祖国であると観念している土地に、
同じ人間が先祖代々、生き、生活してきたのだ。
そして、エスニック・クレンジングによって、土地を奪ってきたのだ。

真っ当な、人間らしい心があるのなら、罪の意識に苛まれる筈なのだ。
しかもネイティブ・アメリカンと違って、
己が今立っている土地に生活していた人間が、まだ生きているのである。

何故、平気でいられるのか、その方が、私にはよほど不思議だ。

1947年
・11月29日:国連分割案採択
1948年
・3月19日:米が分割案の停止を求め、信託統治領を提案
・4月1日:国連安保理は停戦案を採択
・4月4日:「ダーレット作戦」発動
・4月9日:ヤシン村で254人を虐殺
・4月21日:ハイファ攻撃開始
・4月23日:ハイファ制圧
・5月14日:イスラエル建国宣言
・5月15日:アラブ軍参戦


アラブ軍の侵攻により戦争が始まったという『イスラエル建国神話』

第一次中東戦争はアラブ軍の侵攻により始まったというのなら、
それ以前に既に数十万人もエスニック・クレンジング済み
だったのは、一体どういう訳だ?

ヤシン村虐殺はエスニック・クレンジングの常套手段だ。
旧ユーゴ、そしてイラクでは現在行われている。
つまり、<見せしめ>として、一般市民を虐殺すればよいのだ。
そうすれば、残りの一般市民など、
確かに自分の足で、「自発的に」去ってくれるのだ。
手間が省けるというものだ。
ハイファなどの巨大都市は、そうもいかないので、
正規軍で軍事的に叩き出すのだ。
「出て行くか、死ぬか、どっちでもお好きなように」と。

このおぞましい『イスラエル建国神話』

そして現在でも曰く
「パレスチナって難民キャンプじゃなかったんですか」と。

一体、難民を生み出したのは誰なのだ?
どうやって生み出したのだ。

59年前に追い出された自宅の家の鍵を今でも持つ老人達の映像を観たことがある。
この老人達がどういうつもりで鍵を59年間も持っていたと思っているのだろう。
老人が亡くなれば、次世代へと次々と手渡されているのだ。

もはやそんな家など、存在していないことの方が多いのに、、、

政治的立場や思想を超えて、訴えかけるものがあると思う。
たとえ政治的立場や思想が異なっても、
このような残酷な事態に心が動かない人間など存在するのであろうか。


サイードは言う。
ユダヤ人は統制がとれ、組織的だと。
しかしパレスチナ人はバラバラで統制などとれていなかったと。

サイードは素直に相手側の優れた点と自分達の至らない面を認めている。

アラブ軍を美化するつもりなど毛頭ない。
名門ハーシミー家であるヨルダン王家は、西岸を併合し、
大ヨルダン建設を計画しているのではないかと
イラクやシリアは警戒し、お互いに疑心暗鬼であった。
イラクなどはそれを牽制する為に軍をヨルダンに派遣したという要素さえある。
そしてヨルダンとユダヤの密約は本当だったと、
現在ではほぼ確定しているように思う。

確かに、ユダヤ人はよく練られている。
(ヨルダンとの密約も含めて)
英統治が終わる前から、綿密に練られた計画を
全ユダヤ人を挙げて全力で取り組んだ。
確かに民族存亡を賭けているのだから当然といえば当然だが。
確かに背負っているものが、その時点では雲泥の差だった。
一方、パレスチナ人はといえば、
アラブ諸国が何とかしてくれるだろうとしか思っていなかった。
パレスチナの正規軍など千人ちょっとで、
ユダヤの軍は11万いたのだから、話にもならない。
つまり戦う前から勝負は決まっていたのだ。

しかし、何故戦わねばならなかったのだ。

一国家案に賛同する者も数割はいたのである。
二国家案にするにしても、共存できた筈ではないか。

パレスチナ共産党は、当然にも民族、宗教・宗派を超えて、
一国家実現を追及していた。
ソ連共産党による裏切りという問題もある。

しかし、ユダヤ国家にする為には、ユダヤ人が絶対多数派でなければならない。
イスラエル領とされた地域ですら、ユダヤ人は絶対多数ではなかったのだ。
(約50万人のユダヤ人と約40万人のパレスチナ人)
したがって、安定したユダヤ国家とする為には、
何としてもユダヤ領からパレスチナ人を追い出さねばならなかったのだ。
面積も狭いから、後の移民を受け入れる土地も確保せねばならなかった。
これこそが数十万人ものパレスチナ難民が生み出された原因である。

国連分割案には、イスラエル領とされた土地からパレスチナ人を
追い出してもよいという規定など、もちろんないのだ。

・1948年12月11日:国連決議194:難民帰還と賠償
・1948年5月11日:国連決議273:
イスラエルが「国連憲章に由来する様々な義務を、いかなる留保もなしに
受け入れ、国連に加盟されしだい、こうした義務を遵守することを約束する」
と宣言していることを認め、イスラエルの国連加盟が認められたのだ。

難民の帰還権を認め、賠償まで認めたが故にこそ国連加盟を認められたのだ。


ヤシン村虐殺はイルグンとシュテルンの『独断専行』だと思う。
ハガナは当初は非難声明を出した。
しかし、その効果が余りにも絶大だった為、沈黙してしまう。
ここに人間の弱さが露呈している。
甘い誘惑に負けたのではないと言えるのか?
目的は手段を浄化しないのだ。
内部の矛盾をも否定せねばならないのだ。
歪んだ手段をいくら積み重ねても、歪んだ目的しか達成されないのだ。
目的性が個々の手段に内在していなければならないのだ。

それはチェチェンやパレスチナやイラクの反占領闘争にもそのまま当てはまる。
反占領勢力として、無差別テロ勢力をも肯定してしまったのだ。
そのツケは背負わねばならない。
イラクでは、レジスタンスはアルカイダと戦っている。
パレスチナも、無差別テロを自己批判し、絶滅せねばならない。
それを肯定したまま出来上がる未来社会なぞ歪んだものにしかならない。
そんなものは要らないのではないのか。
歪んだ未来社会を創設する為に戦うのか。

スペイン内戦では、フランコという正真正銘のファシストと
スペイン民衆は戦った。
スペイン人民戦線を結成して戦った。
しかしスペイン人民戦線内部で、スターリン主義者の共産党は、
労働組合を掌握するアナーキスト、アナルコ・サンジカリスト、
トロツキストとみなした者達を虐殺していった。
共に肩を並べ、フランコ軍と戦っている真っ最中にだ。
もしそんな勢力が、フランコに勝ち、スペイン内戦に勝利していたとしても、
そこに出来上がった社会は、ソ連東欧社会と全く同じものに過ぎなかったのだ。
(ジョージ・オーエル「カタロニア賛歌」参照)


エスニック・クレンジングを現実に実行する担い手は、
ほんの一握りの狂信者にすぎない。

旧ユーゴでも、イラクでも、一般民衆同士が殺し合った訳ではない。
何十年も共存してきた一般民衆が殺し合った訳ではない。
ごく一握りの狂信者が始めるのだ。

問題は、それをどう受け止め、止めさせるかだ。

それはその社会全体の問題だ。

旧ユーゴでは、戦火が隣町まで迫っても、
自分達にはそんなことは起きる筈はないと確信していた。
何故なら何十年も共に暮らしてきた隣人と殺し合うことなど
あり得ないという確信があったからだ。

パレスチナの村と隣接するキブツ。
共に一緒に暮らしてきたのだ。
お互いに訪問し合い、共に暮らしてきたのだ。
この隣人と殺し合うことなどあり得ないという確信があったのだ。

しかし現実は冷酷だ。
それは幻想に過ぎなかった。

パレスチナの村を守ったユダヤ人も多数いることも知っている。
その逆もある。

個々人のレベルでは、尊敬できるユダヤ人も多数実在した。
しかし、国家というレベルでは、国家政策というレベルでは、
そうはならない。

それは、一体、何故なのか、、、

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