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2007.05.14

1948年5月15日

5月15日という日付は決定的な意味を持ちます。

その日までは、イギリスの委任統治が続いているのですから、
アラブ軍は国境を越えることができません。
もし正規軍が国境を越えれば、それはイギリスに宣戦布告する
ということですから、そんなことはあり得ません。
だから義勇軍というかたちで三千人程度送り込んだのですが、
そんなものは、焼け石に水です。

いくらアラブ連盟がジハード宣言しようと何の意味もありません。

ユダヤ側は、この5月15日に照準を合わせ、その全力を投入しました。
ユダヤ側としては、為すべきことを為したのです。
つまりダーレット計画に基づいてエスニック・クレンジングを完遂したのです。

イスラエル領とされることになっていた領土には、
50万のユダヤ人と40万のパレスチナ人が実在しました。
いくらイスラエルという国家が成立しても、
アラブ人の私的所有する土地は、アラブ人に所有権があります。
国有地になる訳ではありません。

このままにしておけば、後から続々と続く予定の同胞を
入植させる土地がありません。

しかも、もし5月15日を過ぎて、アラブ軍が侵攻してきて、
イスラエル領内のパレスチナ人保護を名目に駐留されるかもしれませんでした。

もしそんなことになれば、イスラエルは建国の日で即、消滅の危機に瀕します。

確かに、ユダヤ側の視点で考えれば、
5月15日までにエスニック・クレンジングを完了させておく以外に
ユダヤ国家建設はあり得ないと考えたとしても理解できます。

だからこそ、問題は、分割案実施をまずは中止することでしょうね。

しかし、ではイギリスは撤退するというのだから、
では、一体誰が駐留するというのかと問われれば、
たちまち困ってしまいますが、

とりあえず、英軍がもうしばらく駐留を続け、
まずは、停戦を実施し、
国連で対応を練り直すということくらいしか考えられませんが、、、
国連平和維持軍のようなものを送るとかでしょうね。


Plan Dalet
http://www.palestineremembered.com/Articles/General/Story1552.html

Walid Khalidi:
Plan Dalet The Zionist Master Plan for the Conquest of Palestine
Middle East Forum
「イギリスが徐々に撤退していくことで可能となり、
国内へアラブ諸国が侵入してくることで終わることになった戦争のこの段階は、
ハガナに貴重な勝利をもたらした。
各地の攻撃的戦闘のおかげで、ユダヤ人領域を保持しえただけでなく、
われわれの戦力のアラブ地域への浸透をも達成した。
膨大な数に達するアラブが逃亡したことにより、われわれの軍事力で広大な
地域を支配することが容易になり、また難民を吸収し組織するために多大の
努力を払わねばならない敵には、重荷を背負わせることになったのである。
敗北感のために、難民がアラブ地域に甘んじてとどまるであろうことは
想像に難くない。
もしもアラブの侵入がなかったならばハガナの戦力の拡大はとどまるところを
知らなかったであろう。そしてハガナはペースを落とすことなく進撃を続け、
イスラエル西部の自然的境界線にまで到達しえていたであろう。
なぜなら、この段階では国内各地の敵の戦力のほとんどが
もはや麻痺状態にあったからである」
(「アラブの解放」板垣雄三編 P.150)

ユダヤ側によるエスニック・クレンジングの完遂は、
「イギリスが徐々に撤退していくことで可能」となったのです。
英軍が撤退していく地域には権力の空白が生じます。
その権力の空白を埋めるのは、ユダヤ側とパレスチナ側の軍事力です。

・パレスチナ正規軍 1618人
・アラブ義勇軍 2830人
・ハガナ  12万1110人
 3月6日ハガナに総動員令
・アラブ軍合計:1万3876人

ユダヤ側には第二次大戦を戦い抜いた三万人もの歴戦の戦闘員が含まれます。

武器もチェコ・スロヴァキアから入ってきており、
(5月15以降は戦車や飛行機もチェコ・スロヴァキアから入ってくる)
更には、1948年3月までに日産100挺の自動小銃の生産工場が稼動しており、
4月の第一週までには日産200挺に増産されることになっていました。
月産40万発の9ミリ銃弾も生産されていました。
更にはこれらの工場は、手榴弾15万発、3インチ迫撃砲3万発、
火炎放射器、対戦車砲、大口径臼砲ダヴィドカも生産していました。
(「アラブの解放」板垣雄三編 P.141)

「国内へアラブ諸国が侵入してくることで終わることになった戦争」は、

戦う前から勝負はついていたことは明らかです。

5月15日にアラブ軍が国境を越えた時には、
既にパレスチナ人は1万4823人の死者を出し、
既に数十万人も難民となっていたのです。


英軍が、徐々に撤退していく地域をユダヤ側が実効支配し、
他方、パレスチナ全土には、イギリスの統治権を主張することで、
5月15日までは、周辺アラブ諸国軍は、国境を超えられないのです。

かくして、ユダヤ側のエスニック・クレンジングは、完遂されたのです。

エスニック・クレンジング:民族浄化とは、ジェノサイドとは違います。

この場合、イスラエル領となる予定地内のパレスチナ人を追い出すことが
目的なのであって、殺害することが目的ではありません。

しかし、先祖伝来の地から数十万人を追い出すのに、
流血の事態にならないとは誰も考えないでしょうね。

ただ、ヤシン村の虐殺が、ダーレット計画にビルトインされていた
のかどうは、それはもはや分からないでしょうね。
ベングリオン等の当時の指導部が墓の中まで持っていってしまったのですから。

ヤシン村虐殺を、中央指導部がビルトインしていたのか、
イルグンによる暴発事件だったのか、それは証明のしようがありません。

しかし、ハガナは、ヤシン村虐殺事件でパニックに陥っていた
パレスチナ人を叩き出す有効な手段として活用しました。


1948年にイスラエルがエスニック・クレンジングを行ったことは、
現在では歴史的事実、史実です。

エスニック・クレンジングがあったかどうかが争点なのではありません。
エスニック・クレンジングにジェノサイドまでもが
ビルトインされていたのか否かが争点です。

http://www.geocities.co.jp/Technopolis-Mars/5614/is8.html
ヨセファの現在の夫シモニエルは、かつてパレスチナ人とユダヤ人の
二民族共存を夢見ていた一人だった。
しかし一九四八年にパレスチナ人が続々と逃亡していくのを見て、
これでいいのだ、仕方がないのだ、と考えるようになったという。
この頃はナチスの強制収容所が解放されていたものの、
ユダヤ人は行き場がなくて収容所に留まっていた。
彼はこれらの人々を迎えるために、目の前で家を失っていく人々のことに
目をつぶることにしたのである。
こうした経過をたどったユダヤ人は、意外に多い。
この人々は次に、パレスチナ人の土地の没収も仕方ない、と思うようになる。
エルサレムの併合にも賛成する。そして右傾化が果てしなく進行する。


(広河隆一「パレスチナ」岩波新書)
パレスチナ人に、アラブ軍の作戦が終るまで自分の村を離れろと
「退避命令」を放送したから、パレスチナ人が村を出たというものである。
責任はパレスチナ人側にあり、ユダヤ人側にはないというわけだ。
BBCや米政府が、当時のパレスチナにおける放送をすべて傍受し録音していたが
それを調べた人々はそのような放送の記録を見つけることができなかった。
イスラエルもこの証拠を提出することができていない。
その反対に、パレスチナ人に村に留まるように呼びかけた
アラブ側の放送の記録は多数ある。

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