「見ることの塩」四方田犬彦(イスラエル/パレスチナ編)
「ユダヤ人一般など存在せず、誰もがきわめて細かな区分法によって
分類されていた」
「職業のみならず、食事作法、音楽、微妙な言葉遣いなどによって、
互に隔てられていた」
イスラエルのユダヤ人は、東欧系のアシュケナジーム、
地中海沿岸のスファラディーム、イスラム諸国からのミズラヒーム、
それぞれが更に細分化していく。
ルーマニア系、モロッコ系、エチオピア系、イエメン系、
ロシア系、グルジア系等々。
世界遺産に認定された「白い街」テルアビブ。
アシュケナジーム系の豪華なマンション群。
その隣のミズラヒームの居住地は公園等で囲い込まれて完全に遮断されていた。
(その設計の目的は書物に記載されていた)
慎ましやかなイエメン系集落。
ある一角だけが妙に寂しい。
調べてみると、1948年までアラブ人の住居であった地区だった。
テルアビブは無人の砂漠に零から建設されたという神話も偽りだった。
中国人情報誌やフィリピン人情報誌の売られている外国人労働者街。
皮肉にもシオニスト・ヘルツルが『古くて新しい国』で夢想した世界中の言語が
語られるコスモポリタンな商業都市の姿に最も近しい。
「刑務所に入獄中のユダヤ人の八割はミズラヒーム」
その「最下層のモロッコ系が、その六割」
内通が発覚して私刑に処されたパレスチナ人の数は、
2000年前後には一年に150人から200人に達している。
私刑による死者の数はイスラエル軍によって殺害された者の数を凌駕している。
本当に民主的な判定の下に処刑されたとは到底思えない。
「内通者の中における女性の割合と意味」について筆者は考察している。
イスラム社会における家父長制、女性の「名誉の殺人」
共同体から性的・道徳的に逸脱していると『みなされた』女性は、
それだけで内通者と見なされ、私刑の対象となる。
更には、イスラエル側もまた女性を意図的に内通者のターゲットにする。
これらの多くの要因がある。
第一次インティファーダから1993年までの七年間に、記録によると、
107人の女性が私刑で殺害されているそうだ。
その内81人までがガザで生じていることは、イスラム各派の力関係が
処刑に際して大きな要素であることを物語っていると著者は述べている。
「民族と宗教の違いが戦争の原因となったのではない。戦争によって引き起こ
された異常な状況が、エスニックな自己同一性を人々に準備させたのである。
敵との対立関係を通して新しいアイデンティティを与える。それが民族であり
宗教であった」
「民族とは、近代19世紀に考案されたものであり、神話的起源や英雄叙事詩は、
民族の発明の歴史性を隠蔽し、それを偽りの永遠の相のもとに顕彰する目的で
援用されている物語にすぎない」
「他者を暴力に満ちた野蛮と見立て、それを鏡像としてみずからの美化と神聖化
へと向かうものたちが、現実にはその場所に野蛮と暴力を導入している」
ある犠牲者が、かつて別の場所では加害者であったのであり、
ある加害者が、かつて別の場所では犠牲者であったのだ。
そういう意味において、確かに「見ることの塩」である。
目に入ってくる現実は、次から次へと目に塩をすり込むかのような
悲痛な現実ばかりである。
それも、単純な悲劇ではない。
悲惨が多重構造になっている。
筆者はそれを「入れ子構造」と呼んでいる。
ユダヤ人、パレスチナ人、セルビア人、クロアチア人の間で
更にその内部で差別・抑圧が「入れ子構造」になっている。
出身地別、階層別、性別等々の要素によって更に階層構造が繰り返されていく。
しかし、悪無限と思える「入れ子構造」も無限ではない。
その「構造」を解明し、分析しなければならない。
分析し、解明し、認識しなければならない。
「見ることの塩」は、その営為を背後で衝き動かすものへと
昇華されるのでなければならない。
<参照>
「見ることの塩」四方田犬彦(セルビア/コソヴォ編)
http://ima-ikiteiruhushigi.cocolog-nifty.com/yugoslavia/2005/09/post_3727.html
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