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2005.03.30

「イラクにおけるシーア派イスラーム運動の展開」酒井啓子

 「中東・中央アジア諸国における権力構造」岩波書店
 酒井啓子、青山弘之編(2005年3月24日発行)4400円+税

 第7章「イラクにおけるシーア派イスラーム運動の展開」酒井啓子

 従来イラクのシーア派社会において、ナジャフを中心としたシーア派の
ウラマー界:ハウザは民衆との社会的接点がむしろ薄いと言われてきた。
イラク戦争後、それまでの大衆からの遊離、政治への忌避姿勢を一転させて、
絶大な大衆動員力を発揮している。

<ハウザの社会的役割の転換は、何故イラク戦争後急に見られたのか?>
 これまで一切の政治勢力との接触を持たなかった勢力ですら、
政治に関与せざるを得ない環境がイラク戦争後生じている。
イラク戦争後、シーア派社会において社会が「イスラーム化」すると同時に、
イスラームのウラマー界が大衆化、政治化している。


 第1節 イラクのシーア派社会に関する先行研究
 1.平信徒/ウラマー層という二主体認識か、ウラマー層の二義性か
①「国家=政治的社会的主流派のスンニ派」
 「社会=シーア派」
②イスラーム運動の担い手は、
 ・宗教的なウラマー
 ・ナジャフの商人階層
 ・都市中間層たる近代知識人
③・平信徒活動家のサブ・ナショナルなシーア派運動
 ・ウラマーが展開する超ナショナルな理念を追求する運動
(ジャッバール「イラクにおけるシーア派運動」2003年)

 2.部族社会/ウラマー層関係の歴史的経緯
 聖地ナジャフにおける二重権力構造
・ムサッラフーン:武装した部族集団
・ムッライーヤ:ウラマー層
 
 片方の勢力のみの反英闘争は破れ、両勢力が協調した1920年の反英闘争は
一定の成果を収めた。
「異なる二主体が協働した際に初めて広域拡大性を持つ運動が成功する、
 という一種の歴史的モデルを作り上げる」

 ウラマー層が自衛の為に形成された武装集団であるとの異説もある。
(サウジからのワッハーブ派の侵攻に備えて組織した市警護員組織)

「ウラマー自身の持つ地域社会における政治勢力としての性格が
 突出した場合に、シーア派社会が部族制、武力依存性を強化する」
・非政治的・学問的存在としてのウラマーと、
・政治勢力としてのウラマーという二面性


 第2節 シーア派社会におけるイスラーム運動の諸相
・共同体構成員を統合し動員する社会的機能
・共同体構成員に倫理、秩序概念を提供する法学・学問的機能
 この二つの側面がシーア派社会を異なる二つの主体に分裂させる。
 二つの機能が組み合わされれば社会運動の展開に推進力となる。

 1930年代から1950年代におけるハウザの後退
 五分の一税やザカートの徴収すらできなかった。

・ダアワ党:平信徒から発信された近代的政治運動(創始者はM.B.サドル師)
 シーア派諸都市では商人が五分の一税の徴収を兼ねることが多く、そうした
社会的役割を背景としてアシュラなどの宗教儀礼の執行人の役割も果たしていた
 聖地における商人層は、その財力のみならず、儀礼執行や徴税行為を通じて、
シーア派社会の共同運営に直接関与する地方名望家的存在になっていた。
 こうした経済力を有し、一定の社会的役割も持つ商人層=平信徒が政党組織化
したものがダアワ党
「党は政治局が選挙や合議を通じての判断を優先させるべしという党の原則を
 明確に確認し、ウラマー/宗教的イデオローグと政治的指導部の間を明確に
 分離するという党の思想が流れている」

・ワキール制度:五分の一税などのイスラーム税の徴収を行う為の存在
「ハウザの再生の為に活用されたワキール制度は、ウラマーの政治化を促し、
 運動の幅を広げる契機となった」
 ワキールをダアワ党による政治活動の地方支部に準じた形で利用する
 パターンが成立

・M.S.サドル師による金曜礼拝再開
 ・部族集団との関係を緊密化
「フセイン政権下で政府への服従を強要されていた部族社会にとって、
 サドル師の初期の容政府姿勢はハウザへの接近を行い易くするものであった」

 90年代後半、影響力が大衆に浸透するにつれ、サドル師は政治性を強める。
政府に対して批判路線を採るようになる。
政治不介入派のホーイ師やシスターニ師を「沈黙のマルジャイーヤ」と批判し、
自らは「現場のマルジャイーヤ」と呼ばれた。

 湾岸戦争後、フセインがイランとの接近を図った為、フセイン政権による
イスラーム推進政策。
 湾岸戦争後、政府が充分なサービスを国民に提供できないことを補う為に、
イスラームを利用しようとした。同時にダアワ党とSCIRIという反体制政治勢力
の国内活動基盤を削ぐ為に行われたキャンペーンであった。
しかし、結果として、イラクにおけるイスラームの向上となった。
「バアス党政権下で世俗的社会構成論理が主流を占めていたのに対し、
 イスラームという宗教が社会動員の核となり得る環境がフセイン政権末期には
 準備されていた」


 第3節 イラク戦争後のシーア派イスラーム運動の台頭状況
・SCIRI:動員構造をウラマー・ネットワークに持つ
・ダアワ党:平信徒中心のイデオロギー的政治組織
 フセイン政権崩壊後の2004年4月のアルバイーンでは、100万人規模の参加者
 SCIRIはカルバラでの支持層拡大の為に行進行事を後援し、実施運営に貢献

 ダアワ党は1980年前後に複数の分派に分裂
 分派のいくつかは南部湿地帯で反政府ゲリラ活動を行う。
 湿地帯ゲリラ指導者のムハンマダーウィー氏(イラク・ヒズボラ)は
 統治評議会に登用される。
 ダアワ党などの政治組織は国内基盤と疎遠になった時期が長かった。

 ムクタダ・サドル師は父の築いた支持ネットワークを引き継ぐ。
サダムシティに戦後信徒間ネットワークを築く。サドルシティとなる。
サドル派の勢力拡張過程をみると、ワキールを核とした運動を展開している
ワキール制を有効に活用した
従来ワキールが複数のウラマーの代理として機能してきたナジャフの従来からの
方式から逸脱し、サドル師以外の代理を禁じている。

 各勢力とも戦後しばらくの間は、地域限定的な動員能力しかなった。
「ダアワ党やSCIRIがCPAによって任命された統治評議会に参加して、早くから
 米主導のイラク統治に協力的な姿勢を示したのは、シーア派社会全般に広範な
 広がりを持たないダアワ党やSCIRIが、国政レベルの政治的影響力を獲得する
 為に政治中枢への参画を重視したと見なすことができる」

 サドル派、ダアワ党、SCIRIなどが、それぞれ対立的に運動を展開することは
ハウザの分裂という危機を、政治化された者であれ、非政治的姿勢を貫く者で
あれ、ウラマー層全体に認識させることとなった。
シスターニ師は、サドル派のマフディ軍結成と武力衝突の頻発という事態に至り
ハウザ統合強化の必要性を認識した。

2003年4月、シスターニ師は、外国による支配を拒否することを真っ先に明言。
2003年6月、「外国占領軍には制憲議会を任命する合法性がない。まず総選挙が
  あって選挙資格を持つ国民が制憲議会を選出し、その後憲法草案を
   レファレンダムにかけるべきである」とのファトワを発出。
シスターニ師を頂点としてシーア派各勢力が選挙要求で一致した行動を取り
始めた。
 シスターニ師との連携を重視したシーア派政治組織が、シスターニ師の
ワキールの位置付けで活動する例もみられる。(SCIRIのサギール氏など) 
「ワキールの活用は各地方のワキールの独断専行を生む危険性を持つもの」
「シスターニ師の名を利用して、政治的影響力拡大を図ろうとする勢力が
 存在することの深刻さ」

「戦後の秩序崩壊過程で地域的限定性を持つウラマー・ネットワークが
 活性化され、そのことがシスターニという、むしろこれまで政治化してこな
 かったが故に極めて脱地域主義的な立場にあったアッ・タクリードをもまた
 運動の動態要因として揺り動かした。この結果、それぞれのウラマー・
 ネットワークの持つ政治性の有無を超えて、シーア派社会全体がハウザの
 もとに一体としてイスラーム化した」
「暫定議会の選出方法を巡る論議が、シーア派内部の対立に一旦終止符を打ち、
 シーア派社会全般に運動を広げる運動枠組みを提供する契機となった」

 しかし、それはシーア派社会にとどまり、イラク全体、とりわけスンニ派
社会と共有できる運動枠組みではなかった。

『「シーア派は国家と並行して存在する独自の社会的政治的ネットワークに
  依存していた」が、国家に依存し国家のなかで生きていくことを常に
  選択してきたスンニ派は、寄り添うべき国家が不在の状況では国家に
 「反逆しやすい」存在となる』(ハーシミー:2003年)

「スンニ派イスラーム運動の多くがより強い反米・反占領を打ち出しており、
 その点でシーア派ウラマー界の政治方向性に比較して政治性、ナショナリズム
 性が強い」


 <私の感想>
①イラクのシーア派を分析する場合に、<宗教指導者層>と<平信徒=商人階層
 、部族>という二実体を措定すること。
②現代では、その二実体とは、<宗教指導者層>と<政治政党:ダアワ党や
SCIRI>
③その二実体の相互作用=対立と協調により、事態が進行してきたこと。
 両実体が共同すれば効果を発揮してきたという歴史的事例=1920年蜂起。
④1920年蜂起では、シーア派とスンニ派との共闘によってこそ一定の成果が
 挙がったと私は思いますが。
⑤フセイン政権末期に既にこうした諸実体は登場していること。
⑥本来は、政治的静謐主義のシスターニ師を頂点として、統一は保たれている
 ものの、呉越同舟、利害対立を抱えながら、辛うじて統一が保たれていると
 いうこと。つまり、情勢の変動によっては、統一は崩れるということ。
⑦シーア派と言っても、世俗化が進行している人々も多く、支持政党無し層や、
 イスラム復興を掲げる宗教性へ、むしろ忌避感を持つ人々も多いと思う。
 <シーア派世俗派>、<シーア派世俗派支持政党無し層>等々も存在して
 いると思う。
 選挙での統一イラクへの投票率からしてもそう分析できると思う。
⑧数十年前には、イラクのシーア派の貧困層のかなりの部分が、イラク共産党の
 支持者であったという歴史的事実については述べられていませんね。
 現在では、その影響力はかなり小さくなってしまっていますが
 (全国比例代表制なのに2議席だけだし)
⑨宗派分析も重要だと思いますが、イラク労働運動の分析も必要だと思います。

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